🎼受け継がれて行くのは、熱血の遺伝子。
SPEC・・・・<名前>フクチ神社 Ψ祭神 大山津見神、三峯神社(イザナギ&イザナミ神) 🔯式内社 富知神社
≪発掘地域≫〒418-0057 静岡県富士宮市朝日町12・・・・古くは富知(ふち)と読んだようですが、不二、福地、福士、福壽とも表記された事から現代語の富士(ふじ)の事であることが解ります。富士山本宮浅間大社の第41代大宮司 富士民済が江戸時代の寛政年間(1789~1801)に記したとされる「富士本宮浅間社記」には現在、浅間大社が鎮座している大宮(富士宮市宮町)の社地は、もとは福地明神(当神社の別名)の社地だったと伝えられている。
浅間大社が大同元年(806年、平安時代)、坂上田村麻呂により山宮より遷座されたと伝えられていることから、それ以前に鎮座されていた富知神社は当地の地主神であるとともに富士山の神であったと思われる。
平安時代の延長5年に編纂された「延喜神明帳」には国家により認められた2861社3132座の式内社が掲載され(全部お参り出来んのかこれw)、駿河国22座のうち、富士郡には浅間神社・倭文(しでり)神社そして富知神社と掲載される。
また「吾妻鏡」には文治2年に北条義時が、富士領上政所福地社に神田を寄進しており、富士領とあるのは当社が浅間大社の支配下にあったという事を伝えている。このことは「富士本宮浅間社記」などに富知神社が浅間大社の摂社であると記されていることからも分かる。
実は・・・・此花咲耶姫の父親の塚を祭ったものであったらしい。
∽ ∽ ∽ ∽ 祭 儀 ∽ ∽ ∽ ∽
浅間大社の最古の年中行事書で天正5年(1577)に記された「富士大宮御神事帳」、また慶安3年(1650)に書写された「富士本宮年中祭礼之次第」には、1月4月5月11月に祭礼を行っていた事が記されている。1月の祭礼では大宮司の参籠、4月9月11月は大祭礼、5月は流鏑馬祭に付随した祭礼を行うなど、浅間大社の祭礼とは大変密接な関係があった。
なお「静岡県富士郡神社明細帳」には例祭が4月14日とあるが、現在は9月19日。他には5月4日の浅間大社流鏑馬祭本社巡拝がある。
富士山本宮浅間大社はヤマトタケルが富士山山足から浅間神を山宮に遷した後、平安時代に更に下の方へ勧譲して造ったものだと言う話だったのですが、実は浅間神社シリーズをプロデュースした坂上田村麻呂が来るより前からほぼ同じコンセプトの山神を祭った小さな神社が現在の浅間大社の位置にありました。本宮浅間大社を建てる為にこちらにお引っ越ししたらしいです。
ややこしい話ですが、現在の本宮浅間大社や後の浅間神社シリーズに何らかの影響を与えたようです。本宮浅間大社から15分ほど歩くと直ぐ到着❗❗社務所ですね。こちらは御朱印貰えます。一応ですが祀られているのがオオヤマツミ神(サクヤ姫とイワナガ姫の親父)であり、彼個人は産業や航海、繁栄の神なので商売繁盛の御利益&子孫繁栄の御利益があるんじゃないでしょうか?公式見解はさておき(; ̄ー ̄A入り口横の菩薩立像、甲子像(1688造立) に挨拶してGO
大宮の浅間大社の場所にあった時からすでに地主神、鎮守の神として信仰されていたそうです。元は孝霊天皇の時代に創建され延喜式神明帳にも記載された富士地区3社の1つ・・・・つまりなんだっけレアカード?
川がありベンチもある。
更に境内には宮司さんが造った綺麗な公園と駐車場があり、神域というよりは憩いの場となっております。
手水舎。1礼して左手右手左手で口をすすぎ残りの水でつかごと洗う❗因みに宮司さんの計らいで、この砂利の敷いてあるところが大胆にも駐車場になってます。
解りにくいですが表の車道から来るとここが入り口。
狭くて非常に解りにくいですが、お酒屋さんの直ぐ手前を左折でクルマが停められます❗
じゃ、オオヤマツミさんに挨拶します。
2回お辞儀をして2回拍手して空気の邪を払い、胸元で手を合わせ無の境地(初対面なので特に望みもない。)最後お辞儀して・・・中を覗く!😅
左手に
天神社かな?あらら?何かちがくない?
三峯神社?みぶ?みしま?
イザナキとイザナミ?・・・・じゃあ、祭神オオヤマツミのパパとママ、つまりサクヤ姫のお爺ちゃんとお婆ちゃんですね。
入り口に書いてありました(; ̄ー ̄A
本殿は流れ造りですね。入り口は平いり、屋根は切妻造り・・・もっともスタンダードな神社の構造らしいです。
反対側から
拝殿は入母屋造り。
公園を撮りたい所ですがファミリーが遊んでるのでここまで。
以上。富士山の火口にある「浅間大社奥宮」の遺伝子を継ぐ式内社にして後の浅間シリーズの原型となったとおぼしき富知神社でした!