🎼神々の宿る世界樹 Ψ機神(おに)たちのユグドラシルΨ

東海方面を中心とした遺跡や小さい神社などを探訪するブログです。……と見せかけてゾイド教の教えを後世へ残し、ゾイディストたちの極楽浄土を建設する試みです。現在信者数1

堀谷アラハバキ神社

 北方の諏訪湖を水源とする天竜川は、山中を蛇行しながら南下し、太平洋へぬける手前で大きな台地に激突する。

 

 その台地には淵があり龍宮伝説があった。淵には乙姫という地底の支配者で大地母神である女神さまがいて、彼女は気に入った相手に小さな男の子を託してくる。その男の子は竜の霊力を持っており富も権力も、なんでも望むものを手に入れることが出来たといいます。

 そんな伝説や18000年以上前の洞窟遺跡、縄文時代の遺跡が残るその台地も今では車道やハイキングコース、ゴルフ場が造られ、山中の集落まで日帰りで行けるようになっている。

 

 龍宮山岩水寺の参道はそのまま登山道になっているため台地の奥まで進むことが出来るようですね。

 

 こういう登山道の脇を流れる川には時折、不自然で気持ち悪い岩が一つだけポツンとあったりする。まるで龍宮伝説に登場する醜い子供ウントク。

 ゴルフ場が始まる辺りから道幅が広くなる。

 

 

 いくつかの分岐を経て右へ左へグネグネ曲がりくねった道を歩くことおよそ一時間……。

 

 道の両側に茶色く尖った岩壁が迫り、古ぼけた鳥居が見えてきた。

 

 

 

 ここがアラハバキ神社なのだろうか?

 

 境内は突き出た岩山を頂点に、稲荷神社や山神社と思しきいくつかの祠や戦争で命を落とした軍人の石碑が。

 

 アラハバキはいわゆる日本神話が成立するより前、記紀神話に名前のないカミサマで縄文時代か、それよりもっと古い時代に信仰されていたと言われます。

 

 アラハバキは塞の神とも言われ、この場所が何らかの境界や砦か何かの跡だった可能性あります。

 

 またアラハバキは、長脛彦命なんじゃないのか? シュメール神話の天空神アヌンナキと関係があるんじゃないのか?という噂もありますが真実は歴史の霧の向こうです。

 

 

 

 

沼祖霊社

 浜北駅から歩いて5分ほどの場所に沼祖霊社という石柱があります。

 公園に玉垣があるのでこれは神社だなと思い寄ってみました。

 

 創建は戦国時代。

織田信長が本能寺に散り、豊臣秀吉が関白の座について数年。

 (関白っていうのは、天皇を補佐して実質的に政治を行う人のことで、古くは藤原不比等なんかのポジションです。摂政というか。)

 

 そういう時代にこの浜北駅の辺りを開墾して京都から八幡神を分霊して神社を作ったのが始まりだそうです。

 当時の神社は今で言う市役所のような場所です。

 

 

村は開墾者である太田沼乃助(おおたぬまのすけ)の沼という字をとって沼村と名付けられ、彼が始めた真竹の植林で生計を立てていたようです。

 

 ところで、太田と言えば天竜川を挟んで隣の森町には太田川というものがありまして、その川の上流はかつて大物主神を祀る小國神社の境内でした。

 大物主神の子孫で太田田根子という人物がいるらしいですね。

 

 天竜川沿いのこの地域と古くから神事にたずさわる太田一族。

 なにか因縁がありそうではありますね。

 

 【真竹(まだけ)】について

 真竹は古くから植林されて来た竹で、竹細工や建築資材のほかタケノコを食用にしたりできます。

 あとここからが重要なのですが、真竹は細かく頑丈な根を張るので治水工事にも使用されて来た歴史があるそうです。

 全国の河川に竹林があるのは村落を堤防の決壊から護るため、ということを今回勉強できました。

 

「渡ヶ島」諏訪神社

 ピアノの街、浜松シティー。

天竜川に沿って北上すると浜北市があり、そのまた北限、山岳地帯にさしかかり天竜川がぐにゃりと折れ曲がる部分に阿多古川があり、その辺りから一気に山岳地帯になる。

 山間部にある里は古くから林業が盛んで、天竜川の流れを利用して浜松市の河口の港まで材木を運んだと言います。

 阿多古川との分岐をすこし上流へ遡ると研究所兼工場のような大型施設が見えて来ます。

 道路を挟み山側には新築のオシャレな邸宅や古民家カフェが立ち並び、くぼんだ場所にそれらと対象的な古ぼけた神社があります。

 山を背に森に埋もれるように存在する諏訪神社。

 石器時代、縄文時代のミシャグジ信仰を核に発展してきた狩猟神の神社。

 天竜川の流域にたくさんあるのは、2つの理由があるとみてる。

 天竜川の水源地が諏訪湖である。これが一つ。

 もう一つは、神官を務めてきた物部モリヤ氏が、実はかつて世界の海を又に掛けた古代海洋民族と深い関係があり………この天竜川を舟の道として利用していた可能性が高いこと。

 長野の山中から陸路である東海道や太平洋へ、さらに黒潮に乗り南の島々へ。

 南インドへ、スペインのイビサ島へ………北上してケルト文明圏へ。それは壮大すぎる想像ですが。

 

 少なくとも明治時代ぐらいまで諏訪湖の辺りから材木用の木を伐り出し、その木にまたがってウォータースライダーのように天竜川をくだり、バケツリレーのように途中にいくつもの拠点を設けて都まで運び込んでいた事実はあるようです。

 木をカットしてつなぎ合わせ小さな筏にして下流の村まで行く役割の拠点、小さな筏同士をつなぎ合わせ大きな筏にして次の村まで運ぶ拠点。

 

 他所から持ってきた特産品を筏に積み込み河口まで運ぶ役目の拠点……といった形で村同士で連携し、最終的に海にでる河口の港で筏を解体して行商人に筏(材木)と特産品(商品)を渡し、駄賃を貰って徒歩で帰って行く、或いは

朝廷に献上する年貢を朝廷直轄だった当時の浜松市の津毛利神社へ運ぶ。

 そんなシステムがあったようです。

 そして金品が絡む以上、各拠点は信用できる構成員で運営されなければならない。

 物部モリヤ一族か、それに連なるカモ一族(陰陽師の祖)か? 

 いずれにせよ、諏訪神社は生産から流通までを仕切っていた会社だったんじゃないでしょうかね。

 

 もちろん違う見解もあるでしょうが私はうっすらそう感じています。

 諏訪神社は伊豆、駿河、遠州合わせて141社。そのうちの61%が遠州つまり天竜川の流域に集中しているという。

 

 

三方ヶ原台地の積石塚

 古墳っていっぱいあると思うんですけど、大体はあれじゃないですか? 浜名湖の北東にある三方ヶ原台地っていうところに特殊な古墳がありまして……

 と、そのまえに古墳っていうのはいわゆる王様とか女王様のお墓って言われるアレ。日本版しょぼいピラミッド!

 土俵みたいな土饅頭があって、中に石室があったりなかったり。

 だいたい住宅地の真ん中の小さい公園にポツンとあったり、田園地帯の片隅に盛り上がった林があって小さな神社があったりする古代遺跡。

 で、三方ヶ原台地っていうところには古墳が群として残されてる遊水池エリアがあるんですよね。

 ここって何かっていうと、本来はすこし離れたところに大きな河と集落があって、そこで稲作をやっていた人たちがこしらえたお墓らしいです。まあその人達の子孫か分かんないんですけど遊水池周りはびっしり民家が立ち並んでニュータウン化しています。(地盤大丈夫なのかな?)

 

 特殊なのは墳墓の材料が礫……要は川砂利を積み上げて造られていることですね。いわゆる“塚”っていうんですけど。

 

 中世とかでこういうのがあるのはまあ、わかるんですけど発掘された品の中に鏡や須恵器がある事や同じ形状の墓が中国や朝鮮にもあることから

 「5世紀〜7世紀にかけて渡来人によって造られた古墳なんじゃないかな〜?」と、学者さんは考えています。

 

 

 そうなんですよね。

銅鏡、須恵器、稲作の道具って中国では5世紀〜7世紀の遺跡で見つかっていて

朝鮮半島の古墳もそれぐらいの年代なんですよ。

 なのでそこを基準に考えて作られたのが「古墳時代」という定番ストーリー。

 ちなみに5世紀〜7世紀の日本ってどんな感じだったかというと

 聖徳太子とか大化の改新なんかの時代がすっぽり入ってて、確かに1000年以上前の話だから昔っちゃ昔なんだけど

 考古学と呼んでいいのか迷うレベルで、わりと最近の話なんですよね?

 

 

 

 

 

 

椎ヵ脇神社御旅所

 おそらく神社ではありませんが立派な鳥居と常夜灯があるのが二俣町の川岸側、鳥羽山のトンネル入口にある【椎ヵ脇神社御旅所】です。

 

 

 椎ヵ脇神社そのものは天竜川を挟んで反対側の岸にあります。

 椎ヵ脇神社というのは天竜川の語源になった龍を祀る由緒正しき神社です。

 天竜川は昔、「天の中川」と呼ばれていて中川の中というのはナーガに当て字をしたものらしいです。

 

 

 

 

 天竜川は長野県の諏訪湖を水源とし、静岡県浜松市を通って太平洋へぬける大河です。

 堤防やダムといった近代的な治水が始まる前はほぼアマゾン川のような状態で浜北市の北の方は島が点在しているような状況だったようです。下流にあるいま国道や鉄道が走っている場所も川の中でした。

 浜北市には少なくとも奈良時代には都がありましたし、天竜川づたいに諏訪の都から舟や徒歩で移動する人が多かったと聞きます。

 ただ、この天竜川。一度台風がくれば下流域は1週間しけた大海原のようになり人の往来ができなくなったことも昭和の記録に残っております。

 

 そんななのでダムがなかった時代、特に鹿島橋が架かる前、舟で向こう岸に渡っていた時代など、長野方面から来た旅行者が相当長いあいだ足止めを食らっていたことは容易に想像できます。そういった旅の人に宿を提供していた場所がこの御旅所ではないでしょうかね。

 

 私の邪推なんですが川向こうの椎ヵ脇神社の御神体ってたぶん川岸にあった巨大な「淵」だったと思うのですよ。淵というのは水深があってそこだけ流れが穏やかな場所です。日本の古い山神信仰では淵というのは神様の世界、霊界に通じているとされていましたので。

 

 なので、昔はこの辺りまで椎ヵ脇神社の境内だったんじゃないかと思います。

 

 

 ちなみにケルト語のシイって、妖精や人知の及ばない場所、古墳などの霊界の入口って意味があるようです。

 そして深い水の底は、地底世界、神々の世界へと繋がっていて人の魂も魚の姿でそこからやってくるっていう信仰もありました。

 

 日本中の河の淵や山の湧き水のところに「龍宮伝説」が残っていると思うんですが、アレはまさに古代日本民族がドルイドに導かれていた証拠だと思うんですよね。いやこうかもしれない。

 日本人の祖先の一部はケルト語を話していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

金貨水神

  かつて天竜川の上流にダムが造られる前は浜北の北東部には丁度アマゾンみたいにいくつかの孤島があり、島ごとに村が形成されていたっぽいです。

  昔は大きな橋なんてなかったから、どこへ行くにも舟が必要で、大雨なんか降った日には必ずどこかが決壊するような有様でした。

 

 なのでしばしば上流の集落から物が流れてくる事があったそうです。例えば仏像ですとか。

 

 

 そういうものは島の端にある淵に溜まりやすい。淵というのはそこだけ水深が深くて流れが緩やかな場所です。

 

 金貨水神は病気を担保にお金を貸してくれるサラ金みたいな神社です。

 借りたい金額ならびに担保にする病気を備え付けの借用書類に記入しサインして奉納する。しばらくするとどこからともなく入金があり、それはそのまま借入金となります。

 病気を担保に取られているのでそのお金を神様に返済しなければ病気は戻ってきません。たぶん転売されます。

 この神社の創建は室町時代まで遡るそうです。

 

 なお証明書の発行は椎ヵ脇神社で行われております。

 

 

 

御石神 みしゃくじ

 中沢新一さんという学者がいうには御石神(ミシャクジ)は石に宿る神であり、みしゃくじに正しい当て字をするなら『宿神』であるとしている。

 

 その一方で戸矢学さんという先生は、「諏訪の神〜封印された縄文の血祭り〜」の中で、『しゃく、じ』という発音は漢字(呉)の発想だからネイティブの考え方ではないとした上で、

 縄文時代や弥生時代の発音に近い万葉仮名は別の当て字の仕方をしているという。例えば美佐口や佐口といった具合に。

 しゃ、くち→これをヤマト言葉にすると

『さ、くち』で→裂く地、と訓読みに当て字し直すことも出来ることから、ミシャクジ様は太古の昔から人命を奪ってきた地震(地割れ)の神であり、ミシャクジ様の信仰に生贄が伴うのはそういった意味があるのでは?と。

 

 私はその上でこう思います。

 そもそも数万年前の縄文時代には優れた技術力を持ち七つの海を股にかけていた海の民がいて、世界中の言語や神話に影響を与えていたのではないでしょうか。

 カナン人、イビサ人、フェニキア人、ケルトの民、羌族、呉人、そして…シュメール人

 

 彼らの習俗や神話や言語の中に答えがあるんじゃないのか?と邪推してまして。

 ミサクチを私は

ミ、サク、チ なんじゃないかなって思ってて

 

サクは裂であると同時に例えばオリエンタル世界における鹿頭の神の名前が「サク」で、チは蛟(ミズチ)のチと同じように血、地、知(?)であり、源とかエレメントとかそういう意味なんじゃないのかなって。

 ミサクチ→鹿頭の神のエレメンタル→ケルヌンノスの精

なんだと思いこんでいます。