🎼神々の宿る世界樹 ~機神(おに)たちのユグドラシル~Ψ

神仏を敬い鬼神を祀る機神教団の色々アウトな地下迷宮です。尚、オフィシャルサイトでは御座いませんので神社仏閣の擬Zi化につきましてはタカラトミー様ならびに神社仏閣関係者様からの苦情がありしだい画像を消去いたします。

セーブデータ2「信玄ゆかりの普明寺」

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静岡県裾野市千福方面にある「景ヶ島屏風岩」を観るべく、愛鷹山の麓をさ迷い続けると・・・・・武田信玄ゆかりの「普明寺(ふみょうじ)」に到着❗ 
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Googleマップ的には「〒410-1116 静岡県裾野市千福387」
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入り口のお地蔵さまにご挨拶をしながらこの場所の由緒を。

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市の中央に位置する千福。そこに「平山」という周囲を一望できる小高い丘があり、その小高い丘の裾に曹洞宗太平山普明寺(そうどうしゅう たいへいざん ふみょうじ)といういわゆる密教の御寺がある。
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歩きながら話しましょう🎵
急ぎますんで。

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室町時代末に、周囲を一望できる小高い丘に葛山城の支城として千福城が構築され、その裾に武田家の家臣「御宿正倫(みしゅくまさとも)」の居の址に建立されたのが、この普明寺です。
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址というのは建物の跡という意味。

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参道横にはこんな感じで田んぼ。
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この丘をぶち抜くような形で東名高速道路がはしっておりますゆえ、本来この一帯は田園地帯だったのかも
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本尊は釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう、いわゆるブッダ)で、像の製作年代は江戸時代❗

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元亀3年(1572)武田家より寺領の寄進状とともに馬頭観音像1体の寄付がなされた。(※大昔は神社や寺が土地を正当性をもって管理することが出来た為、武家は神社や寺に土地を預けたっぽい。)

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ここの当主、御宿正倫(みしゅくまさとも)は後に名前を“勘兵衛”と改め、武田氏に仕え御宿・千福の二村を領し、武田氏滅亡後は結城秀康(ゆうきひでやす)に召し抱えられたという。

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ここで、神社と同じようにお清めをします!

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左手には立派な鐘もあり、ついつい突いてみたくなりますね。

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大きいのでそこそこ遠くまで響くと思います
( ≧∀≦)ノ

近所迷惑だからやめておこう。

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御宿正倫改め勘兵衛は、最終的に豊臣秀頼に仕え、元和元年(1615)・・・・・運命の大阪夏の陣において真田幸村の陣に参戦し、武運つきて戦死した。時に5月7日・・・正倫47歳であったという。(普明寺文書より)

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この場所は春になると、桜が綺麗に咲き誇るという。まるで正倫の魂が乗り移っているかのごとく。

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また当寺には、歴史的価値の高い「武田信玄発給文書」が保管されており、閲覧する場合は普明寺に連絡してください。(Googleによると055-992-1176)

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    「 武田信玄発給文書 1 」

 制札   普明寺

於手当寺 当手之軍兵狼藉之事堅令停止 無体有打殺寺家輩者及注進及 不然者 押立当陣へ被参候者 早速可加成敗也 仍如件
          天文十四年
             十月六日

(当寺において、当手の軍勢狼藉の事、堅く停止せむ。無体に寺家を打ち殺す輩があれば、注進に及ぶか、しからずんば押し立て当陣へ参られ候わば、早速成敗を加うべきものなり。よって件のごとし。)



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     「 武田信玄発給文書 2 」

    定
累年御抱之寺中 山林 聊不可有相違候 早々建立梵宇尤候 寺産之儀者 御宿監物当知行之条 無是非候 但葛山信貞遂談合 於彼料所之内相当之地可令寄附者也 仍如件
  元亀三年 壬申
     五月十一日 信玄《花印》
          見性寺 几下 




(累年お抱えの寺中・山林、いささかも相違あるべからず候。早々梵宇を建立もっともに候。寺産の儀は、御宿監物当知行の条、是非なく候。ただし葛山信貞と談合を遂げ、かの料所の内において相当の地寄附せしむべきものなり。よって件のごとし。)

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この先に何かあるらしい。

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行って見ますか?