🎼神々の宿る世界樹 ~機神(おに)たちのユグドラシル~Ψ

神仏を敬い鬼神を祀る機神教団の色々アウトな地下迷宮です。尚、オフィシャルサイトでは御座いませんので神社仏閣の擬Zi化につきましてはタカラトミー様ならびに神社仏閣関係者様からの苦情がありしだい画像を消去いたします。

御殿場市新橋 藍澤五卿神社 

🎼『おもへばなうかりし世にもあい沢の、水のあわとや人のきゆらん』SPEC・・・<名前>アイザワ・ゴキョウ神社 Ψ祭神 藤原宗行卿、藤原光親卿、源有雅卿、藤原範茂卿、藤原信能卿 ∞ヒュムノス 🔷祭り 9月14日(例大祭)  ≪発掘場所≫〒412-0043 静岡県御殿場市新橋725・・・・・元は藤原宗行が処刑された牢場跡。


 鎌倉の北条義時により執権政治が行われていた頃、武勇に優れた後鳥羽上皇は当時の乱れた統治を正す為の第一段階として討幕計画を進めた。かつて鎌倉創設メンバーの1人、源頼朝が朝廷の虚をつく形で人材を引き抜いていったように、北条氏による粛清渦巻く鎌倉側の武士に出世や身の安全を餌にヘッドハンティングをかけたり、習い事の教師を送り込んで徐々に将軍職の人間を取り込んでいった。しかしこれを知った北条義時は直ちに将軍、源実朝を捕縛し、自らが将軍に就任。速やかに兵をあげ(多くの人々が呼応)、東国から都へ行くための橋を利用した朝廷側の巧みな戦術を物ともせず一気に京を攻め落とした。史実による「承久の乱」である。数々の人材を得て確実な戦略&戦術を練って事にあたっていた筈の後鳥羽上皇軍はなんと作戦キャンセルの嵐に見舞われ敢えなく敗れ、随伴していた藤原氏含む主だった公卿は鎌倉幕府・・・冷徹な特殊部隊、北条氏による苛烈な追及を受けた。
 当神社の権中納言「藤原宗行」は京から鎌倉へ護送される途中、小山新左衛門尉朝長によりこの地、藍澤にて殺害される。承久3年7月14日の事で享年47歳。こうして朝廷は弱体化し、それまで外交取引として朝廷や近隣国に武力を派遣することで存在を黙認されていた一介の民間軍事会社に過ぎなかった鎌倉は国家としての公的権限を認められ一気に支配範囲を拡大。六波羅探題という秘密警察機構等も設置。いよいよ傭兵国家「鎌倉幕府」となっていった。(※幕府という名称は幕末から明治までに普及した為、この時代に“幕府”は無い。)
 
 

 藤原宗行は上皇の信任厚く学識深く多くの詩歌が残されている。古くよりこの地の人々は「お公家さん」と慕い彼の為に藍澤神社を創建し、昭和になると残り4名を合祀した。

鎌倉時代、東国武士は横暴な平安貴族がのさばる京都に見切りをつけた武装した農民達に他ならない。なのにその農民達に「尊い人」「お公家さま」等と親しまれ、死後丁重に扱われている。
・鎌倉からの助命の使者。
・腐敗した律令制に挑んだ後鳥羽上皇のグループに所属していたこと。

それから地元で神社の世話をしてる人から話を聞いてると、この祭神はひょっとしたら後鳥羽上皇の改革に際して農民達の窮状を聞いて回っていたのかも。今となってはどんな人物であったのかを示すモノがありませんが、当時の時代背景等を考慮するとこの神が、それなりに有能で、それなりに有名人で、当時としては珍しく農民達から愛されて、利権団体からの向かい風が強かったであろう後鳥羽上皇の片腕だったあたり・・・・・・・「おほお🎵まろは、まろはね?」←どう考えても、こんなキャラじゃ無かった事は確かなようです。

しっかり自分の意思を持っていて、学力があって、詩の才能があって、改革派の参謀に抜擢される実力者にして農民達の人気者。個人的にはそんな風に思えますかね。当時の東西政府の思惑により全ての記録は抹消済みなので想像の域を出ませんが。



   



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 今回はJR御殿場駅乙女口の塚本古墳から真っ直ぐ鮎沢方向へ向かった所にある「藍澤五卿神社」に行きます。

 旧138号線を跨ぐとすぐに小さな神社が見えてきます。

 クルマでお越しの方は、ラーメンを食べるか?和菓子を購入する必要性のある神社になります。

 怨霊信仰の神社では入り口に川が流れておりますが、これは三途の川を表現していて鳥居を境に生者の世界と死者の世界を明確に分けているそうです。
 頭上で数羽のカラスが鳴いてますね。



 では、これより御挨拶。

 この人、どんな文献でも、偉大な方としか載って無いんですよね。
 怨霊信仰の対象なのに性格や具体的に何をしてたのか等の描写は一切無し。



 少し蚊が飛んでる。
 この人について不可解な事はまだまだあって、鎌倉幕府を倒す計画の中心に居たにも関わらず役職などが記載されるばかりで、通常なら東妻鏡にどんな些細なこともボロクソ書かれているところが、文字通りなーんにも無いこと。


 それでいてこの人、「公家」というだけで鎌倉幕府側の農民や豪族から慕われて神社まで建ててもらっているのが不思議で仕方がありません。


 


 このように恨まれるような理由が1つも無い人が護送中に突然斬られたのも意味がわかりません。
 これはあくまで私の感想ですが彼は口封じをされたのでは無かろうか? 敵対者とみるや重箱の隅をつつくように叩く吾妻鏡にすら記載がない敵方の有名人。しかも死後直ぐに神社を建てて貰えるような人物。
 戦記ものだとどうしても敵味方で明確に別れているように思ってしまうが、現実はどんな腐敗した国にも実直で敵方にすらフェアに接し、状況次第で救いの手を伸ばしたりする大人物がいたりする。
 
 うまく言えないけど、この神社には
あたたかさがある。
 

 

 護送中の彼らが相次いで殺されたのはひょっとしたら宗行の殺害理由をぼかす為なのかも知れない。あくまでちょっとした手違いであったことをアピールする為の。



 源平の合戦以来、朝廷から独立し政治的な圧力を掛けたり勝手に税を徴収したり、やりたい放題の軍事政権を倒し再び平安の世を取り戻す為、起死回生を狙った強襲作戦。一刻も早く平和な世の中を取り戻そうとした上皇と藤原家。彼らには彼等の正義と人々からの人望があったのだが・・・。
時代は既に朝廷よりも、鎌倉幕府に期待していたのか

蓋を開けてみれば後鳥羽上皇の呼び掛けに応じて参集した兵は鎌倉のそれより遥かに少なくまた、鎌倉のそれより士気も低かった。

それはそうだ後鳥羽上皇の周りの人々こそ真面目で民の事を考えていたものの、朝廷そのものは引き続き腐敗しており役人がやりたい放題やっている事に変わりはなく、そこに嫌気がさした人々が国家の外の楽園である鎌倉に望みをかけていたのだから。



拝殿裏
シンプルですね。( ・∇・)
と言う訳で藤原五卿の眠る藍澤五卿神社でした。次回は更に道なりに進んだ所の鮎澤神社をご紹介予定です。

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