🎼いざ子供、野蒜摘みに、野蒜摘みに。
SPEC・・・・・<名前>ハチマン宮(クネ機) Ψ祭神 誉田別命 ∞源氏の神 🔷祭り🔷不明
《発掘地域》〒410-1111 静岡県裾野市久根504・・・・・久根の古い氏神で創立年月日は不明ですが神社明細帳に元文元年8月(1736)に再建されたという記録が残っています。また八幡神社は昔から「八幡大菩薩」とも呼ばれましたが、明治政府によってこの仏教神号は禁止されました。菩薩というのはサンスクリット語のボーディサットバbodhisattvaから来ており、bodhi(菩提、悟り)+sattva(薩、人)より「悟りを求める人」の意であり、元来は仏教の創始者釈尊の成道(じょうどう)以前の修行の姿をさしているそうです。
もっとも😅・・・・・・飛鳥時代に国教として仏教が導入された際に、仏も神様の一種として、あまつさえ巫女の少女つきで紹介され、そのまま惰性で信仰が続いてきましたので厳密な所を問うても余り意味がないかもしれませんが。・・・祭神は応神天皇とされますが天皇家縁(ゆかり)の源氏は八幡神を氏神としていました。源頼朝が鎌倉で幕府を開いた際に、鎌倉へ八幡神を迎えて「鶴岡八幡宮」を創設し、武家の守護神としたのが武家=八幡宮の始まりだそう。
戦時中、武運を祈ってここから戦地に赴いた多くの若者達がいたかと思うと・・・・多少お腹が痛いですね。
◎ 東地区 久根 ◎
裾野市の中央部から北東に位置し、東西約3.8km、南北約800m。北は深良、南は公文名・稲荷に、西は佐野に隣接している。東側は海抜433m洞山まで細長くのびており、この地点で茶畑と隣接している。
「クネ」とは箱根に自生する竹などを編んで作った垣の事で、箱根は雑木、竹、茅や草を取る利用価値の高い山で、そこに棲息する動物も多く、集落や耕地を守るための土手やクネが箱根一帯に築かれていた。そのクネが久根の由来となったらしい。
鹿島神社を後にして、本日のヤハタ神のコーナーです。
ここを曲がると神社の境内を囲むように道路があり住宅があります🎵
・・・・裾野市の良いところはこのように古い通りが残っているお陰で大昔の街道やコミュニティがどのような配置だったのか?を予測しやすいところ。
逆に何時までも古い考えに拘り村落同士互いにいがみ合い嫌がらせや足の引っ張りあいでガラパゴス化しているところが悪い部分とも地元民が言ってますね・・・・・・ハハ。(^_^;)
そんなに争いと伝統が好きならば、いっそうのことそれぞれの八幡宮が中心になってそれぞれの地区から代表選手を選んでリングで闘い合わせればいいのに。せっかく地域全体で武神を祭ってるんだし、総合格闘技の大会開けばいいのに。
等と好き勝手な事を抜かしながら現地に到着❗
住宅地のど真ん中。
八幡宮に因んで「ハチワングランプリ」を開催してみるとか❗
( ´ ▽ ` )ノ
それを裾野市の名物にすればきっと
活気が生まれるし、武神を祀り武を磨くという伝統を守り続ける事にもつながるので
( ´ ▽ ` )ノ御先祖様も喜ぶと思うよお?
ネオ公文名(拠点は鹿島神社)とかネオ佐野(拠点は佐野八幡宮)ネオ御宿(拠点は御宿八幡宮)、ネオ平松(拠点は平松八幡宮)、ネオ南堀(拠点は南堀八幡宮)そしてネオ久根(拠点は久根八幡宮)・・・・・って感じで各コロニーの代表のファイターを選びだしリングで戦う❗とはいうものの若者の数が減ってきてるから、
いーとこEスポーツで格闘ゲームだろうなあ。
・・・・冗談はさておき、春の武神祭り、ヤハタ計画第2段❗( ´ ▽ ` )ノ
参拝しまーす❗
シンプルな境内。八幡宮・・・・祀られているのは
応神天皇。つまり誉田別命。
母は神功皇后という武神。
喧嘩が強い母子ですな。
ではでは二礼二拍手一礼・・・・という儀式は明治時代に整えられた比較的新しいルールらしい。
本来は拍手を8回する。
中の様子。まあ、神社の中身なんて大抵どこも同じですからあまり意味無いですが😅
御神木?なのかは解りませんが、この先に摂社・末社がございます❗
例によって何が祀られているのか不明です😅
裾野市~御殿場までは吉田神社の信仰があって良く境内で祀られているのでそれかな?とも思います❗
横から見た八幡宮。ヤハタ造りと呼ばれる建築の筈ですが解りません。
もうひとつ社・・・・・と、思ったら物置小屋?みたいな感じですね。これがおそらくヨシダサン(※貴重な吉田神社の御神体を地域で10年に一度回してる)の小屋だと思われます。
以上、久根の八幡宮でした。(  ̄▽ ̄)
工場前の不思議な場所。
深良用水路が完成し箱根芦ノ湖からの水が黄瀬川に流入した結果、川の水嵩はどんどん増していって各地で新田建設の期待が高まった。そして・・・この場所は「川尻」と呼ばれる屋号があり、佐野堰から引いた黄瀬川地水の限界だったことを物語っています。そこから水を延長して作られたのがこちらの「三間掘」
寛文11年に計画立案、着工そして完成!これにより、畑成地が実現し、稲荷新田と平松新田が誕生しました。
今でもその水が人々を生かし続けている。
( *・ω・)ノ