霊山寺墓地に入るも散々道に迷い、横穴群を確認出来ず、結局手前にある公民館横のせまい道から登る事になりました。
先史時代の人々はとにかく山が好きなようで遺跡が集中しています。山に孔を穿ちカプセルホテルのように使用していたらしい。
ごく普通の登山道であり眼下には先程までさまよっていた墓地の迷宮が見えますね。
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とりあえず遺跡だけでも・・・・と考えておりましたが本気でハイキングコースになってまいりました。
遺跡を確認しようにも崖っぷちで足場が悪い・・・・・考古学の先生がいかに大変なのかがわかる。私はもう帰りたい。
岩場を登りきると分岐があり謎の社が鎮座する。
祠には山盛りのドングリお供えしてあってなんだか可愛らしくもあります。
その祠は岩をくり抜いたように造られており、たぶん磐座として鎮座していたのだろうと思います。
これが今年最後の神社参拝になりそうですね。
鬱蒼と繁る草の道を進む。
すると落ち葉だらけの道へ。
そこそこの場所まで来てしまい時刻は14時、本来であれば下山の準備をしますが、沼津アルプスは先史時代から現代まで代々人が生活の為に使って来た山の為、安全に帰る道が必ずあります。
そうこうしているうちに階段が現れこれで幾らか登山が楽になると思ったのもつかのま。
汗だくになりながら上着を脱いでシャツ一枚になる。寒い事を見越して多めに持ってきた衣類が仇になった。リュックが重い。
階段は幅も傾きもまばらな上に上下左右に曲りくねり勾配までついておりまして、これなら階段なんて無い方がマシに思えて来ます。
この丘陵の海側の斜面には、飛鳥時代までに作られた古墳であるとされる横穴群があります。中東のカッパドキア遺跡のようにはっきりくっきり棚や竈の跡が存在するものも多々あるらしく謎は深まるばかりですが、今進んでいる場所のすぐ足元であるため結局穴は一つも見えません。
古墳にせよ住居跡にせよ、なにゆえこんな険しく不便な場所に、それも風化で壊れやすそうなところに造ったのでしょうか? 実際殆どの横穴群は自然に崩れて埋まってしまっていたそうです。
途中、林道を横切るように車道が走っています。
もしかしたら山の頂上に公園のようなものがあるのかもしれません。そう思うと文明圏に抜けた安堵感とともに
「だったら最初からクルマを使ったほうが…」というガッカリ感が出てきます。
ただ収穫もあって、こうやって昔の人々が使っていた場所を歩いてみると、なんとなく山に住居を構える利便性が自分なりに見えて来ました。
例えば戦国時代の山城をイメージしてみてください。
道が入り組んでいる上に土地勘の無い余所者にとっては出入り口が限られますから少人数ずつ入ってゆく事になります。
それでいて住民には秘密の抜け道が無数にあるわけです。
攻め込んだが最後、木々や岩の裂け目から矢を射られ、上からは石をぶつけられ、ともすれば足元から現れた住民に黒曜石で出来た刃物を突き刺されるわけです。
不意に獣が忍び寄るミシ、ミシっという音がしたのでギョッとしましたが、幸いその正体はランナーでした。伊豆半島の山はアドベンチャーレースの選手たちが訓練で使うぐらい起伏に富んでいるらしくたまに遭遇します。
よくよく考えて見れば何世紀も人間の住居に包囲されてきた山ですから、クマやイノシシなどは狩り尽くされてもういないのでしょう。
因みにクマに遭遇した際の死因の何割かは足場が悪いところで逃げたときの滑落死らしいです。
どうやら頂上についたらしく駐車場があり頭上には電波塔も見えます。
湾曲したピラミッドのようなモニュメントの中に富士山麓のミニチュアのようなものがあり、顔を上げると壮大なパノラマが広がっていました。
富士と駿河湾の全貌がまるでモニュメントの中の精巧な模型のようです。
西に見えるのは古くから狩野川河口の港町として栄えた我入道、水揚げされた海の幸を陸路で運ぶ為に県内で初めて鉄道が敷かれた沼津港。
駿河湾の東端に目を移せば手前の丸い山が蛇神伝説の徳倉山(トクラヤマ)で、その奥に見える山脈は鷲頭山と麓の獅子浜。
北西には霞んで見える富士の市街地と竜爪山や秋葉山のある連峰。動く車の識別が出来るぐらいに程よい高さと角度です。
巨石文明の遺跡を残した愛鷹山は中央が江尾、右側が春山(ハルヤマ)、左側に須津(スド)という登山道がありますが実は中央の江尾は昔は”エンノオ“と呼んでいたそうです。ボコボコした山の周りに高速道路が走り往来している車両が玩具のように見えます。
大手町は最近カラスが少ないのですが、どこからともなくトンビたちが飛んできて狩ってしまうからです。
どうやらあのトンビたちはこちらの山をねぐらにしているようでした。
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香貫山の頂上は景色を観るには丁度良かったのですがそれ以上のものは何もありませんでした。
ただしここから狼煙などを上げたら周りから目立ったでしょうし、地域全体を見渡せますから物見櫓として機能していたのかも知れませんね。
眼下に見える大きな道路へ向かう山道のアスファルトは剥がれ、倒木や落ち葉に覆われ、降るにつれてガードレールはボロボロに朽ちてゆき自然に還りつつありました。
香貫山はどうも、普段感じる山に導かれるあの感覚がありません。
ここら辺一帯の横穴群の前には民家が隙間なく建ち並び、まるで余所者が進入出来ないように阻止しているようにも見えますがどういった関係の人達が住んでいるのか全くわかりません。交通の便が良いわけではないし山の湿り気で害虫やカビも発生するでしょうから、わざわざ外から人が移り住んで来ているようには思えません。
こちらの地名を八重といいますが八重積羽事代主神と関係があるのかもしれません。
やえづみはことしろぬし
やえ→ヤハウェ=蛇の神
づみ→祇=山、先住民の偉大なる者
は→接続詞
ことしろぬし→事代主=神の言葉を預かる者
そういう解釈を私はしてみました。