静岡県磐田市、国道1号線のインター付近。
そこには13世紀から17世紀……平安時代後期から江戸時代まで続いた15500平方メートルの集合墓地が存在した。
べっこうトンボがやってくる4月、遠江と呼ばれた地方は日中がとても暑い。斜面に作られた住宅地の細道を進んでいるうちに汗だくになってきた。
垣根を曲がると唐突に現れる穴。
この辺りは一ノ谷中世墳墓群といって800~400年前にかけて作られた墓地の跡である。宅地開発の事前調査の結果発見され塚墓、土坑墓、集石墓など計888基ある日本最大級の集合墓地遺跡であることが判明するも平成元年、宅地造成の際にすべて撤去された。
この小さな公園は造成前に型取りしたレプリカなどを一ヶ所に集めて展示している。
見付は東西交通の要衝として遠江国の国衙・守護所が置かれた土地であり後に東海道の見付宿という宿場町になった。
この墓地跡には江戸時代初頭までの役人や町人が埋葬されていたと考えられている。
・火葬場跡
持統天皇の火葬以降、貴人の間で火葬が流行りだした。
公園の入口横に設置されたこの溝は遺体を焼く場所のレプリカ。このような場所が46ヶ所確認されている。横に棒をかけて遺体を固定し裏表丁寧に焼いていったのだろう。底の部分の四角い穴は火力を上げる為の場所。火葬場とされているが実際はこの中から遺骨が発見されており、石の焼け具合や炭の残り具合から精々2回までしか使われなかったらしい。
つまり即席で火葬場を拵えて骨にしたあとはそのままその場所に埋めて雑にお開きにするか、骨を壺や木箱の中に入れて塚墓、集石墓に供養するか選べた。というより埋葬場所ややり方に面倒な取り決めがあったのかも知れない。
・土坑墳
こちらは盛り土をする方墳のような形状の
土坑墳。土器や鉄器、陶磁器などの副葬品と一緒に仏様を屈ませて埋葬する由緒ある土葬方式であり、遺跡全体に分布して277基の存在が確認されている。副葬品が北よりに配置されていることから何らかの意図を持ってホトケサマの頭を北に向けていたと考えられている。
この土坑墳はシングルだけでなくダブルもある。ご遺体を二人以上埋葬することが出来た。
発掘された当時はこのような状態だったらしい。周りに溝が掘られてさながら小さな古墳のようである。もしかしたら名士専用だったのかも知れない。
・塚墓
こちらは塚墓で土坑墓と同時期ぐらいから造られた発展型でサイズは1.6m~7mで
あり正方形や長方形が存在した。
埋葬物を納める孔も3つ存在して真ん中の孔に遺体を、左右の孔には宝物等を収める事が出来た。丘陵平坦部のみならず東の斜面にも一部造られた大型墳墓で13世紀後半~14世紀後半まで162基造られた。特筆すべきはこの墳墓が土葬から火葬への過渡期の墳墓であり、遺体をそのまま入れるか火葬場で焼いた後のお骨を壺などに入れて埋葬するかを選択出来るようになっている。
ただ流石に土地の面積を考慮するようになってか、これ以降のお墓はどんどん質素になり集合墓地化してゆく。
集石墓2……としか命名されていない小型の墳墓で石を組み上げた土台に土を詰めてその上にもう一段、石の囲いをつくり骨壺を納める。
いわゆる大河ドラマに出てくる武士のお墓スタイル。
最初は塚墓の隣に少しだけ造られたが時代が下るにつれ連続したり点在したりするようになり主流になっていった。
更に時代が下ると区画整理された集合墓地が当たり前となり、お墓ごとの個性もうまれた。丘の斜面を段々に掘削工事してそこにも造られるようになって、これが17世紀の江戸時代初頭まで続くことになる。
全体の出土品としては骨壺として愛知県で生産されたブランド物や中国から輸入された青磁、白磁も発見されており、仏様と一緒に納められた副葬品として硯、銅製五輪塔、和鏡などがあった。