SPEC・・・・・<名前>ケンシャ・サノハラ神社 Ψ祭神 藤原朝臣二条為冬卿 他12柱 ∞ヒュムノス 🔷例祭 新春初詣1月1日、どんど焼き(第二日曜日)、開運・厄除け節分祭2月3日
《発掘地域》 静岡県裾野市平松
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箱根・竹ノ下の戦いにおいて尊良親王の身代わりとなって亡くなった二条為冬卿が祭られている。裾野駅建設において候補地に選ばれるも明治天皇から「あの神社はお避けなさい❗」と言われたと伝えられる神社。また明治天皇は当神社に短刀一振りを寄進して、東海道本線を利用する際は椅子から立って黙礼していたと伝えられる。
裾野市茶畑から平松にかけて、塚や五輪塔が散在している。これらは大将塚、将軍塚、公卿塚、座頭塚、宮方塚と呼ばれ、総称して13塚。
これらの塚は次第に崩れ、今は数個が残っているだけですが、かつては塚の中から石柩が発見され、中に遺骨が入っていたという。土地の人々が二条為冬卿や脇屋義助の部下の戦死者であろうと推定した。
北条氏の鎌倉幕府は承久の乱以降、国家としての権限が認められ幾度かの戦乱を乗り越えながら支配範囲を一気に拡大。そして元寇に勝利した後、戦後処理に失敗して負債を残してしまい地方の不満爆発。更に組織の腐敗による重税などで結果的に圧政をしいていた。もう、身分に縛られない楽園を目指した源頼朝達の理念は見る影もなく、民は餓えて国土は荒廃し幾度か決死の革命も試みられたが、暗殺、後方撹乱、政治工作、破壊工作に長けた北条部隊の搦め手でことごとく粛清される。
そんな北条氏を討伐すべく東国、西国の武士、更には粛清を逃れ亡命に成功した人々が後醍醐天皇の下に集結し、最大規模の反攻作戦を実施。知略に優れた楠正成によるゲリラ戦や、元鎌倉方の新田義貞の激闘の末、北条氏に操られた鎌倉幕府を倒すことに成功。また鎌倉軍より京都掌握の為に密かに送り込まれていたはずの足利高氏(あしかがたかうじ)は、都につくやそのまま鎌倉軍のGHQ六波羅探題を壊滅させ討伐軍へと合流する。その報を受けた討伐軍司令官である後醍醐天皇はすぐに北条氏が立てた光厳天皇を廃帝とし元号を改めた。この勝利は後に“建武の中興”と呼ばれる。
その後、後醍醐天皇は作戦に協力してくれた足利高氏には自らの名前の文字を授け足利尊氏となった。
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いやあ、花粉症ひどいっすねー。
丸亀製麺とローソンの丁度裏側に位置しています。
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桜が満開ですね?ここには元々神社ではなくて、13の塚がありました。
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武家政権が続く世の中で長らく忘れられていましたが、明治時代に入り、王政復古が実現し、ようやく再評価の時が来ました。
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地域の人達がこちらにあった13の塚を昔から大切に護っていたそうです。
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かつて、海外の脅威から祖国を護る為に中臣鎌足(藤原氏)らによって整備されてきた律令制やそれを支える緊急通信システムであった駅制は、長い平和の間にそれを使う権限があった役職者たちの特権階級化により私物化(勝手に皇室と連絡を取り合い出世の足掛かりにしたり、金銀財宝を運んだり、引っ越しに使ったり・・・・)が相次ぎ、制度を維持する駅子の農民たちの消耗が深刻化、過労死や餓死、逃亡する者が後を立たず・・・中央集権の基礎であった駅制はぐっちゃぐちゃになっていった。
駅子にされ餓えてボロボロになった農民を更に酷使する役人もいれば、駅道(古代の高速道路)で待ち伏せして堕落した役人を毒殺する農民まであらわれた。
そうした状況を打破する為に中央政府が行ったのが
地方自治を任されていた国司等の役人にこれまで以上の責任と権限を持たせることで地方分権化(小さな政府)し、秩序の維持を試みる事だった・・・・が、これがまた不味かった。
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状況は良くなるどころか、役人がやりたい放題やりはじめて混沌に突入。平安時代末期。朝廷のやり方や荒れ果てる世に危機感を覚えた藤原氏による軍事クーデター等も試みられた。最終的に農民たちに支えられた源氏による初の武家政権、鎌倉幕府が開かれる。・・・・・ただし北条氏によるクーデターののち、世の中は天皇制とその武家政権の間で揺れていた。
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当時の日本には二つの政府が存在していた為、どちらに税を納めるべきかでかなり揉めた。庶民は再び疲弊しきっていた
・・・で、社務所と公民館が一体となっております。
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ゴタゴタは続き、既存の天皇制と武家政権の両立が続いた。ただ、統一国家を目指した天皇制の枠組みが続いていたお陰で一応西洋のような、傭兵主体の感じにはならなかった。何故なら天皇方についている強力な武士団もいたので(多くは打算的であり、皇室を命懸けで護ろうという気概があった訳ではいが)
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公家と武士の中間である藤原家。初代、藤原鎌足(中臣鎌足)の頃から朝廷の懐刀として活躍してきた軍人家系。決して蝶よ花よの御公家様ではなく、何時だって戦場で死ぬ為に訓練を続けてきた狼の群れだった。(本当は平和が好きだけど)
普段の和歌を唱え、学問を修める姿からは想像のつかない荒々しさを秘めていたのが藤原氏の実態。
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ここ、裾野市はそんな狼たちの戦いの舞台の一つ。
かつて「箱根&竹ノ下の戦い」と呼ばれる討伐作戦があった。鎌倉幕府崩壊後にしばらくして足利尊氏が朝廷のやることに色々口を出し始めて同じく北関東出身の新田義貞と対立。挙げ句、彼の領地を勝手に分配してしまう。後醍醐天皇は足利尊氏追討を決断し、皇子・尊良親王を奉じた新田義貞軍と朝廷を乗っ取ろうとしていた足利軍が箱根と竹ノ下(小山町)で激しく激突・・・・・。
その結果朝廷軍が敗退し、西方へ撤退。
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建武2年12月12日。為冬らは友軍を逃がすためこの地で最後の戦いを行う。
後に13の塚が残された。
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この戦いの後、
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天皇制は足利軍が奉じる朝廷と旧来の朝廷の2つにわかれ南北朝時代へ突入してゆく。「戦国時代」の幕開けである。
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右手に曲がり、ゲートボール場の前にあるのは京都から御神体を譲って貰った吉田神社・・・・ただし、6つの部落でその1つの御神体を共有しており、御神体は1年毎にそれぞれの部落の神社を移動しているらしい。要するに今はお留守。
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奥のバックヤード的なスペースには色々ありました。
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十三塚なのかは分かりませんが
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石塔と石塔の間に背を向けるような形で祠がありますが、当神社の末社なのかどうかはわかりません。
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更に右手奥には塚の跡なのか不明ですが色々あります。29
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橋のそばには風化が進んだ道祖神のような石像あり。
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こちらの小さな橋の近くに鳥居跡とおぼしき丸い石があったので、元はこちらが神社の入口だったのかも知れませんね。
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そうするとバックヤードに土俵がある理由も説明がつく。
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元々この境内には将軍塚以前から古代遺跡(祭祀場か塚)があり、土地の人々が代々大切にしていたらしい。
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回れ右して右手に宝物殿。正面の塚のすぐ隣にあります。
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藤原為冬卿が祭られているのは一番大きな社殿のこちら。
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藤原氏の祖先は天児屋命という賛美歌の神様。
・・・・元々は神に仕える延長で天皇家の懐刀をしていたのかも知れませんね。
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子狛犬を抱っこする狛犬。
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二礼二拍手一礼の挨拶。大した性能は無いけど困った時は何時でも俺の体を使ってくだせえ旦那。
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ちなみに御神体は、拝殿の裏の本殿・・・・の更に裏にある“将軍塚”です。
本殿の
更に後ろ↓
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こちらの将軍塚は江戸時代末、1806年に作られた
「矢倉沢通見取絵図」に描かれた平松新田にある“藤原朝臣為冬卿之古跡”と記されています。
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(背後から)
現在は裾野駅手前の踏切の所にあります。
耐震工事の為にセメントが張り付けてある以外は、案内書の写真の通りだそうです。44
つまりこれ、ほぼ発見された当時のままの姿ですね。
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二条為冬は和歌の家、御子左家(みこひだりけ、
※藤原氏の嫡流の1つ)に生まれた公卿の一人で、
父は為世、姉は尊良親王&宗良親王の母。
つまり、為冬卿は今回の作戦で従軍した尊良親王の叔父に当たる。
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建武2年12月12日・・・・・為冬が撤退中の味方を支援すべく佐野原にて72人の従士とともに最後の戦いを演じた後、地元の人々が彼等の亡骸を集めて埋葬し13の塚を建てて彼等の死を悼んだ。
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↑不思議な屋根の社殿
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特に為冬の埋葬された塚の事を「将軍塚」
といい、崇敬したという。
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その後、長い間野ざらしのまま忘れ去られようとしていた将軍塚に再び光を当てたのは勿論、地元の人たちでした。
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王政復古を目指した明治維新の結果、数百年前の活躍が再評価され、その昔、後醍醐天皇の親政を支持して為冬卿とともに戦った何人かが
明治政府の手で神格化され、神社が創建されました。
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しかし、そうした流れに取り残された形の将軍塚を前に服部大八(平松新田)、渡邉隼雄(須山村)、岩崎佐十朗&三好維堅(佐野村)、水口伝蔵(伊豆島田村)らが中心となり、明治政府に働きかけ
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明治9年2月27日、
将軍塚の前に佐野原神社の創建が認められました。
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惜しむらくは、それまでの間に様々な開発の為、13塚のうち幾つかがロストしてしまっていること。今境内にある塚は広い範囲にあった塚を一ヶ所に集めたもの。
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~ ~ 🌊夏祓い ~ ~ ~ ~
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メビウスの環を描くように回りましょう🎵
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