小国神社の境内地、その大半を占めるのは山であり大自然であり、そこは太古から修行の場であった。
ここから浜松の秋葉山に出ることも森町に出ることも出来るし、信州へ抜けることも出来た事から塩などの小さな物資や情報の伝達が可能となっていた。
最初の分岐点の下にはシュウカイドウが咲いている。夏の終わりに霊力を振り絞るかのように可憐に咲く。
日本における山岳信仰は神仏習合(仏教と古代の信仰が混じり合うこと)以前の太古の昔から存在しており、何世紀も後に修験者、山伏、天狗などと呼ばれるモノたちは測量や建築、暦の作り方などを最初から知っていたし、流通網の概念すら理解していたから全国に港町を建設したし山脈を利用したルートの確保にも余念がなかった。
小国神社境内には地球時間でいうところの縄文時代に宮殿が建てられていた。持ち主はエブス人の王とも古代インドから来日した王子とも言われているがいずれにせよ、ここを押さえれば本質的に天下が取れると睨んだのだろうか。
小国神社の裏山はそのまま秋葉山と繋がっているため「塩の道」を利用して西は岐阜、北は長野を経由して新潟まで抜けることが出来た。これを利用して彼ら彼女らはいにしえの時代より技能集団や物資、情報を各地に提供して地位を築きあげていったという。
コンクリート建造物を造れるレベルの人々が何ゆえ山を舗装しなかったのか? ピラミッド(位牌岳)のある愛鷹山の麓には3万7千年前の遺跡からは着け換え刃式の槍と様々な形をした刃先が見つかっており、山中には石で造られた祭壇や石像のモニュメント、作業場の跡が幾つも発見されているが、住居跡は無かった。
神仏習合した後世の御岳信仰(いわゆる修験道)が太古の信仰形式を継承していると仮定するならば、地球時間でいうところの縄文時代の人々は普段は安全なところで稲作を含む農業や漁業をしながら、特別な人々は野生(神々)の試練を受けるために山入りしていたのかも知れない。
今歩いている場所は砕石を敷き詰めて申し訳程度に舗装してあるし、要所要所には水抜用の溝が造られ右側の壁は金網と重りがしてあるが、既に荒れ放題で地が出ている。草も両側から迫り倒木も3つほど越えている。
突然バラバラばら、と左の壁が崩れてくる。そこそこ大きな石が転がりおちてくる。頭上の林に何かの影をみた気がした。
しだいに蚊や蝿が飛び回り、鳥や獣の声もわりかし近くで聞こえ、どんどん悪化する地面に足をとられつつ迫る枝を避ける。
人間のテリトリーでは無くなりつつあることの現れか、少し進むたび見えないクモの巣が顔や髪に張り付き、引き返してシャワーを浴びたい自分を説得し続けなければならなかった。
吹き出す汗を拭う。すこしでも路から外れたら滑落しがちな低山の唯一良いところは酸素がふんだんにあることだと思う。吸えば吸っただけ酸素が入るから体が痺れて動けなくなることはない。
磐田市……と表示されている。
つまり、ここは西へ抜けるルートだということ。
いくらこの山脈が交易の道といっても山はどこまでいっても試練のダンジョンであり、ハイキングコースとして整備されていたとしても迷子になってしまうのだ。
小国神社の奥宮、アラミタマの眠る磐戸神社があるとはもっと東のルート。時刻は午後1時を回っている。
目の前には修験道由来の熊野神社とそれに護られた古い集落。廃墟もある。
どうやら秋葉山の方角へ来てしまったようだ。
氏子でもなくまた、山岳修行を極めた聖(ひじり)でもないワタシはここに眠る金属生命体“ザオウ”を召喚・復元することは出来ない。だからただ、一人の旅人として神様に道中の安全をお祈りするしかすべはない。最初の分岐点からここまでおよそ1時間と20分。
山で道に迷った時の鉄則は速い段階で来た道をそのまま戻ること。
時刻は既に午後2時を過ぎていた。
アラミタマの眠る磐戸神社までは幾つもの分岐があり4時を回って日が落ちれば街灯のないこの山中は闇に閉ざされ野性動物や毒虫が闊歩するようになる。山は黄泉の国の入り口と言われることがあるけれど、多分、黄泉の国と闇の国は語源が同じなんじゃないかと今なら強く思う。
←宮奥線 ↑大洞院
……大洞院は静岡中の山に曹洞宗を広めた古いお寺。曹洞宗は禅宗の一派で中国の洞曹宗のこと。少林寺拳法で有名。
宮奥線は名前からしておそらく奥宮への入り口なのだろう。
足を踏み入れてみると遠くにガードレールらしきものが見えるものの、鬱蒼と繁った草木に阻まれている。
山の中の沢が近いのか水がたまっている。時刻は2時40分を過ぎている。
ブヨやヒル、藪蚊の猛攻に耐えながら進んだところで1時間もすれば辺りが暗くなりはじめる。こんな道なき道で闇に包まれたら危ない、ということでここは諦めるとしよう。